聖書の話。
と言っても聖書の話をするわけではない。

聖書の話とか言うとがたがた言う奴がいるけれど、ああいう人はヨーロッパ旅行とかして観光地にバーンと教会とか大聖堂とか建ってても無視するのか?それなら首尾一貫していていいけれど。
今回のお話のヨブ、或いはヨブ記はチャーリー・ブラウンの中でも普通に出てくるし、ドイツ語ではヨブの知らせと言うと凶報を意味するのでどんなお話か知っておいても損は無いと思う。

ヨブ記と言うのは旧約聖書の中の一つの話で、言うまでも無くヨブと言う人物にまつわる話。

ヨブと言う神の前に正しい人がいる。
或る時、神の前に天使が集っている時、その中に悪魔もいて(聖書の考え方では悪魔とは天使が堕落したもので本質は神に敵対するものと言うより人間を試み、惑わせるものと言う事になっている)、ヨブが正しくいられるのは、神の恵みを受けているから当然だろう、彼を不幸が襲えば、彼は神を呪いだすに違いないと言いだす。神は良かろう、どうなるか見てみようと。そんなわけでヨブを不幸の大パレードが襲いかかる。家屋敷を失い、子供たちは死に、自身は皮膚病にかかる。妻は愛想をつかせて「神を呪って死ね」と言って去る。
物語の真ん中は協奏曲の冗長な第二楽章の様な。神に向かってこの仕打ちは何なのかと問うヨブと、慰めに来たはずなのにそれはやっぱりお前が悪いんじゃないのとヨブを責め出す友人たちとの会話。特にここは「結構毛だらけ猫灰だらけお尻の周りは○○だらけ」みたいな長ったらしい割に意味のあるんだか無いんだか分からない言いまわしの応酬なので殆どの人に取って読むだけ時間の無駄。
結びの第三部の中では神がヨブの前に現れてヨブの訴えに応えるのだけれど、結論としてはヨブは神の前に正しくあり続けた、と言う事になっている。
(ちなみに旧約聖書の中で悪魔についての記述があるのは創世記のエデンの園の話と、このヨブ記だけである。)

教会でヨブ記に触れたりすると、ヨブが本当に神の前に正しかったのか、とかそんな議論が起こりがちなのだけれども、そんな議論が始まった時点で、お前ら、出てけ、お前らに食わせるラーメンなんかない、早く出てけ、節子、塩をまけ、塩を!なのである。その辺が聖書の罠と言うかなんと言うか、そう言う読み方するもんじゃないんだぜって言う罠にゴキブリホイホイに引っかかるゴキブリの様に皆どんどん引っかかる。僕が結構尊敬していた某牧師もそういう方向で話をし出すからがっかり。

話の筋的にヨブが正しかったのかどうなのかと言うところに焦点が当たっているように見えるので、ついそこに議論が行きがちなのはしょうがないと言えばしょうがない気もする。とは言え、上に記したようにはっきりとヨブは正しかったと記されているので、論じる事に意味は無いはずなのだけれど。

例えば人種差別問題を解決したいと思っていて、差別している人に大上段から「なんでお前らそんな事をしているんだ」とドヤして解決できると思ってる人はかなりナイーブと言っていいでしょう。ちなみ、ドイツで難民問題が起こってきた時に、難民排斥の立場を取る人達に対してそういう態度で臨む人多かった印象。難民排斥を旗印に台頭してきた政党、AfD のポスターのドイツ語の間違いをあざ笑ったり揶揄したり。そんな、火に油を注ぐ事はあるかもしれないけど、そう言う事されてΣ(´д`;)(難民排斥は間違っている、やめよう!)とか思う人はいないでしょう。特にそう言う話はよそ様のお話、として扱っているうちは解決しない。いや、難民問題ならまだしも、ヨブ記みたいな本を読んで、つまり、聖書と言うあなたの人生をガタガタ言わせるのが売りみたいな本を読んで、それで、ヨブのした事をスパッと綺麗に解釈したとしてそれであなたの人生に何の益があるの、と言う。それはなんかインスタ映えする為にカラフルなアイスかスイーツ買って写真撮ったら捨てちゃうみたいな大変俗物根性的なことなのじゃない?アイスは食べてこそなんぼ。ラーメンのスープは残してもしょうがないけど、やっぱ食べてこそのラーメン、蘊蓄ばかり語ってラーメン食べないってありますか?

そう言う僕自身もどう解釈すべきか分からなくてわざわざ二十世紀最大の神学者と言われるカール バルトの弟子?が書いたんだか、バルトの言ってる事をまとめたんだかした本を買って読んだ事がある。

聖書の話をどう解釈?とか言った時点で十年早い、読まんでええよ、と。




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