やはりこんな事になって、他にも引用している方もいました。
ドストエフスキー、「カラマーゾフの兄弟」の中の『大審問官』。
ドストエフスキーのこの作品だけは二十歳の頃仲間内でやっていた読書会で取り上げられたので読んだ事がある。「カラマーゾフの兄弟」自体は言ってしまえば推理小説で(と言っても犯人が誰かは分からなかったと思った。)『大審問官』は犯人と目される逃亡中の、主人公の兄が主人公の前に突然現れた時に前後の文脈とほぼ無関係に語られ挿入される逸話であったと思う。十字架上で死んだイエスが再びこの世に現れ、人々から熱狂的に歓迎されるのだが、また捕えられてしまう。そこで大審問官に語られるのはイエスがもたらす自由等と言うものを人は本当は望んでいないのだ、と。読書会で言われていたのはここで言われている、自由をもたらす為に再び現れたイエスと言うのは宗教改革によってドイツに起こったルター派教会のことだと。当時、日本の基督教界の弱小派であるところのルター派(と非常に関係のある)教会の信徒であった僕は「マジかよ」と思った。が、実際に作中にはその前後にドイツに起こったルター派教会を揶揄する様なセリフもあった。

教会音楽と非常に結びつきが近いオルガン音楽のレパートリーに於いて「自由な曲」と言うのは二つの全然別の意味合いがある。
一つはモチーフとしてコラール、讃美歌を扱っていない、いわゆるコラール前奏曲では無い曲、前奏曲、幻想曲、トッカータ、フーガ、オルガン協奏曲、オルガンソナタ等々の曲と言う事。
もう一つはすでに「書かれた」曲、即ち上記のコラール前奏曲でも、非コラール前奏曲でも無い所謂即興曲であって、ドイツの音大で教会音楽を専攻する人はオルガン演奏に関しては「書かれた作品」の演奏の他にこの即興演奏を学ぶ事になっている。
(実は僕がドイツに来た一番の理由はこのオルガン即興を学ぶ事であった。日本の教会では奏楽用の楽器として手鍵盤だけのリード=オルガンが一般的であるけれどもそれで弾けるような作品と言うのが殆ど無かったので僕が自分で作る、その技術を身につけたかったのである。)
随分前に一度書いたけれども、日本の徳善と言う名のルター研究者が或る時オルガニスト・セミナーで語ったように「ドイツのオルガニストなら即興出来ますから」等と言う事は無い。
勿論(環境が違うので)出来る人は出来る。出来る人は即興だけでCD出したり演奏会したりもする。一度ドレスデンの十字架教会の新オルガニスト採用試験の時、即興の課題の試験を何人かの応募者が受けるそれを町の広告塔にポスターを張って金を取って演奏会として提供していたのでびっくりした。
とは言ってもやっぱり出来ない人の方が多いのである。やはりドレスデンで勉強してた頃、学生たちが授業だけじゃダメだと即興の達人みたいな人を講師として招いた事があったし、セミナーには殆どの学生が参加していた。
僕の一番初めのオルガン即興の先生はその一番初めの授業の時、自分はオルガン演奏会をするなら、即興の方がいい、と言った。理由は即興であれば「間違い」と言うものは無くて、聞いていた人に「あの時のあの音はなんなんだい?」と聞かれても「いや、俺がただ、そう弾きたかっただけだから」と言えるから、と。勿論、即興が出来る、と言う事は頭の中で浮かんだ楽想、その音の一つ一つを瞬時に正確に手足鍵盤上に移せるという技術があることが大前提である。しかしながら演奏会、と言う事になればおそらく大抵の(それは「凡庸な」と言う言葉で括られてしまうかもしれないけれど)オルガニストは書かれた「不自由な」、書かれたものに束縛される音楽を演奏するのではないかと思う。

こんな話をしても自分で音楽を奏する事の無い人にはピンと来ないだろうか?

サッカーではどうだろう?僕はただ観戦するだけなのだけれど、子供のチームなんかだと、結果を出したいなら自由を奪ったほうがいい様な事を言う。監督の戦術を(それがとんでもなく間違っていれば話にならないけれど)、子供を叱りつけ、怒鳴りつけながら(?)忠実に実行させる。勿論、一人一人の子供が将来的にどう伸びるのかと言うのは全然別の話。大人でさえ、「黄金の中盤に自由にやらせる」と言ったジーコジャパンがドイツで惨敗したのはまだまだ記憶に新しいところ。敵の裏をかかなければいけないスポーツに於いて、敵の予測を裏切る、自由なプレイと言うものが当然必須だと思うけれど、それが機能すると言う事はそう簡単な話では無いのかもしれない。

或いは、小学校の頃からどこでもあったとは思うが、学級会の様な時間が好きだった人がいるだろうか?そこでは基本、何を言っても自由なはずである。間違った発言等と言うものは無い。多数決等で否決される事はあるにしてもそれは間違いでは無く何を言っても自由。なんなら「男子は一日3回までスカートめくりをしても良い」と動議をするのも自由。勿論、殆どの子たちに非難され、女子からはしばらく総スカンを食うかもしれない。が、議題として持ち出すことは間違いでも何でもなく、自由なのである。勿論これは極論で、別にありきたりの事を言っても、それは当然自由。にもかかわらず、殆どの人はこの「自由に発言して良い」時間を、その自由を謳歌していただろうか?

アニメ「エヴァンゲリオン」の最終回(の一つ前?)でもやっていたけれど、絵の中に地平線を引けば何かが確実に限定される。画家がどの視点から見ているのか、どういう空間なのか。話が始まる時に背景が説明されるが当然それによって物語は限定される。「昔昔の」「どこかの田舎で」「おじいさんとおばあさんが或る程度平和に暮らしている」世界に普通いきなりガミラスが放射能攻撃を仕掛けてきたりしないし、ヤマトがそれに対抗して発進したりもしない。波動砲も撃たなければワープもしない。昔々あるところにおじいさんとおばあさんがーと語り出した時にそれはガミラスだとかヤマトが暴れまわる可能性を排除する。

もっと分かりやすいオールオアナッシングの話をすれば、好きな子がいて告白すればまず普通は恋人として付き合えるか、付き合えないかの二択だろう。そして大抵は後者の惨めな結果になるのを怖れてかなり長い事告白せずにいたりする。自分が好きで、付き合いたいと思っていて、それが自分の強い願望だったとしても。自分が自由であると言う事はその付き合える、付き合えないの「結果」を自由に選択する事が出来る、と言う事ではなく、一つの決断の「結果として」何かを失う権利がある、と言う事だ。何も失わない為に告白という決断をしないのは自由なのではなく、ただのモラトリアムでしか無い。

私たちは自由と言うと何か無条件に良い物、腐りもしなければ幾ら食べても腹を壊す事の無い甘いお菓子の様に思うかもしれない。
しかしよく言われるように自由には責任が伴う、否、実際は責任を伴う何かをする事が出来ると言う事が自由の本質。
道を歩いていて誰か知らない人が困っているとする。助けるのも自由、助けないのも自由。助けないなら薄情者と言うレッテルを引きうけるだけの話だ。(別に通りすがりの困ってる人を全部助ける「雨にも負けず」みたいになれ、とか言いたいわけでは無い。)

私たちは自由を本当に欲しているのだろうか?ようやく最近「ブラック企業」について非難されるのが一般的になってきたけれど、長い間それが存在してきたのは、自由な、企業と対等の立場を前提で結ぶ雇用関係より、案外その企業に隷属することを甘受してきた人たちが少なくなかったからではないのか?

ちょっと前に日本人は絵を見せられてもうんともすんとも言わないみたいな文章を書いたけれども、あれもやはり、自分が不自由なことから来ているのではないかと思う次第。






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